私の五つの傷は開かれている
1987年12月8日 ノート19
(どんなことが待ち受けているのかと思案した後、私はパニックになり始めました。弱さが極度にまで達した瞬間です。とても動揺していました。)
私の神よ、普通の人のように、普通のやり方で、あなたを愛することはできないのでしょうか? 愛する神よ、このような方法ではなく、普通のやり方で、私を導いてくださることはできないでしょうか? ああ、神よ、このすべてにとても大きな責任を感じています。あなたが授けてくださるすべてのお恵みにもかかわらず、私はみじめで、罪深く、邪悪なままだということを知るのは拷問です。どうして、主よ、どうしてこんな私をそばに置いておかれるのですか? これ以上、あなたに顔向けできません。私はあなたにふさわしくありません。私の行くべき片隅に引きこもらせてください。こんなに近くに置かないでください。
どうして? なぜ?
私の神よ、いいえ、他の人たちと同じように、普通のやり方であなたに従い、あなたをお愛しします!
愛する者よ、あなたを大切に思っている1!
ああ、イエス様、私はあなたを傷つけているだけです。行かせてください。私は自分のみじめさの中で安んじます。でもあなたを尊び、愛するのをやめたりはしません1。
待ちなさい!
主よ、このすべて1が私の理解を超えているのです。私自身を超えています!
いいや、あなたの理解を超えてはいない、今はもうそうではない。愛する者よ1、私の五つの傷は大きく開いている。私は大量に血を流している。私は苦しんでいる。あなたの神が苦しんでいる。私の体に栄光を帰してくれないのか? 私の五つの傷は、被造物たちがどれほど私を悲しませているかをあなたが理解するために開いている。
あなたたちが邪悪であろうと、失敗しようと、疑おうと、非道であろうと、私を拒絶しようと、懐疑的であろうと、私の体に対する誠実さに欠けようと、私はあなたたち皆を愛している。まだ理解していないのか? なぜ、私に対していつまでも心を閉ざしているのか? なぜ、あなたたちのほとんどが私を見捨ててしまったのか? なぜ、私に従っていた者たちは進路を変えてしまったのか? どうして私の園をおろそかにしているのか? なぜ私の花々に水をやらないのか? なぜ?
ペトロよ、私の小羊たちはどこか? 小羊たちを探し出し、一致させるのを助けてくれないだろうか? 来なさい。探し出すのを手伝おう、小羊たちに食べ物を持って来て養おう。違う、ペトロ、この不毛の地では何も見つけられない。何も残っていない。わずかに残っていたものも、今や干からび、荒れ果てててしまった。目の届く限り、荒れ地しか見えない。だが、主である私が、私の倉から私のパンを取って来て、あなたたちの倉を私の作物で満たそう。私が小羊たちを養う。この荒れ地に水を引こう。信頼しなさい、愛する者たち。私に信頼しなさい、そうすればあなたたち皆を再び一致させよう。あなたと一緒に、私のヴァスーラ。花よ、もうあなたが彼らに踏みつけられる姿を見ることはない。私の体の栄光のためにあなたを用いようと思っている。神である私が、あなたを愛している。
(主がこのメッセージの中で「私の体に対する誠実さに欠けようと……」とおっしゃった時、主は一致のために働いている人々のことを話しておられました。教会の権威者たちが、解決を見いだそうとして集まっても、大抵こうなってしまいます。話し合いをする相手に、こちらの要求する「何か」が受け入れられるのを期待しながら対面するのです。結局、誰も大して譲ることなく、話し合いは終了してしまいます。これは昨夜、主が私に教えてくださったことです。)